脳…狂…晴空、舞う

真っ黒なキャンパスに一滴のモスグリーン。そこに綺麗なちょうちょを添えて

勢い余って人肉食

究極の愛。それは誰しもが望んでいて

誰しもが求めているものだろう。

 

一概に「愛とはこうだ。」と言えないからこそ

永遠にそれぞれが思う恋愛観のテーマではないだろうか。

 

昨日、ふと自分の思う究極の愛とはどんなことだろうと考えていた。

好きな人と出会い、付き合い。喧嘩と仲直りを繰り返し愛を深め、二人の間に子どもが産まれ子育てに苦戦し、自分を犠牲にし、大きく育て巣立った後にまた二人きりになり、思い出を振り返りながら永遠の眠りにつく。

これはみんなが思う理想な気がする。

ただ、こんなテンプレ人生は果たして本当に究極に愛し合っていたのだろうか。

みんなが憧れる究極はこれが正解なのだろうか。

 

私の考えた究極は違った。

前置き程度に知って欲しいのは

私は異常性癖者ではない。

至ってノーマルな人間だと思っている。

だが、変わっている人というジャンルに属する人種であるということは自覚している。

 

まあ、結論から言えば

私の究極の愛とは

「勢い余って食べられたい」というものだった。

私は私が好きではない。嫌いでもないが好きではない。自己評価として5段階評価の内2ぐらいだと思っている。

私は死にたがりではあるが、人よりも生きたがりな部分もある。それは自分として生きるのではなく「愛する人の中で生きたい」という気持ちが強い。

だからこそ、私の愛した人が私を愛してくれたなら、その中に私を取り込んで生きてほしいと思う。

もちろん、地球ではこれは許されていない。

だからこその究極の愛。という結論に行き着いた。

これを理解して賛同する人は至って少ない。

興味本位に近づいて、私が披露すると引いて逃げていくのが毎回のお決まりパターンなので慣れている。

あまり披露していいものでもないので心の中に閉じ込めておくことが多い。

ただ、ここは私の脳内だから続けよう。

 

「勢い余って食べられたい」というのは

好きな人より先に死にたい。

好きな人に殺されたい。など

ありがちなものの派生である。

 

好きな人が死んだ後の世界を見るのが怖いから先に自分が死にたい。

どうせ人間は死ぬ生き物だから、それなら好きな人に自分の命を奪われたい。

こういう自分勝手な考えをこじらせ

「どうせ人間は死ぬならば、好きな人と愛し合ってどう表現すればいいのかわからなくなって、私を食べるという行為で表現してほしい。その後私が死んだとしても私は好きな人の中で生きられる。忘れられることもない。」という答えが出たのだ。

 

美しいかどうかはわからないが

本来の生物はこうなのではないだろうか。

 

求愛の後相手を食べる生物がいる。

なぜ人間では許されず、非道だと思われるのだろうか。

 

人は人の命を奪ってはいけない。

わかっている。そんな事はこの地球で生きている以上当たり前のことである。

 

ただ私が伝えたい究極の愛は

私の命を奪っているのではない。

私を救っているのだ。私を生まれ変わらせてくれているのだ。醜い私を浄化しているのだ。

 

さあ、究極の愛とはなんだろうか。

 

「欲張り」な感情と「無気力」な日常

小さい頃から両手いっぱいの大荷物。

目に見えない化け物に追いかけられて

それをどっかの偉い人が「野望」だと教えてくれた。

「野望」に満ちた私の未来はきっと明るくて

それは間違いなくみんな同じだと思った。

あれをしよう!こんな人間になろう!

大人になろう!!!

そう思って走り続けた。

両手いっぱいの大荷物。

後ろを振り返れば抱えきれずこぼれ落ちていた。

「野望」が落ちていた。

「どうして?どうして持てないの?私の明るい未来の粒。」

無数に落ちているその粒は「挫折」と「後悔」

の傷跡だった。

ふと周りを見る。

隣のあの子は大きなリュックサックを背負っている。

私は気づく

みんな同じではないことに…

あの大きな大きなリュックサックがあれば叶えられた「野望」

待っていたはずの「明るい未来」

私も欲しい…大きな大きなリュックサック。

たくさん詰め込んで走りたい…

 

そう思った時には抱えきれない私の両手から

また1つ明るい未来の粒がこぼれ落ちて

新しい「野望」と古い「野望」が入れ替わる。

 

もう、疲れたね。いっその事この両手を離して

全部捨ててしまおうか。

両手いっぱいの明るい粒が泣いている